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@『ミッション』設立の尖兵 カトリック布教を使命に文明運ぶ

Aスペイン王朝の迫害で壊滅 密林に建設されたゼズイッタ帝国
B新大陸開拓の尖兵橋頭堡造りに教化村建設に力 
C人狩りにも手をつける奴隷不足をインジオで数合わせ

D無抵抗のイエズス会暴虐の限り尽すバンデイランテス
E遺跡も今は観光村に日本の援助で修復工事が進行
F効奏したカシッキ酋長懐柔策道遠かったインジオへ宗教心萌芽
Gインジオ最初の文明村 バシリカ形式の教会や病院も
H経済支えたマテ茶と牧畜 進んだ産業を積極導入の教化村
I百芸に通じた神父 教化村の繁栄を支えた通力
J大国の領土争いで全て無に 今も生きているイエズス会伝授の技術 終

 

ミッション設立の尖兵 カトリック布教を使命に文明運ぶ@
 一九八六年カンヌ映画祭グランプリを見事獲得した「ザ・ミッション」は十八世紀、ブラジルとアルゼンチンの境にあるイグアスーの滝の上流で、インディオの住民にキリスト教を布教するイエズス会宣教師と南米を征服しようとするスペイン、ポルトガルの思惑が衝突し、軍隊の攻撃にも徹底して無抵抗を貫くガブリエル神父と、力には力で対抗する奴隷商人メンドーサの壮絶な物語だ。
 この物語の舞台がユネスコの世界遺産に指定されているグァラニー伝道施設遺跡群。アルゼンチンとブラジル側が一九八三年に、パラグアイ国側の施設が一九九三年にユネスコ世界遺産に登録されている。
 パラグアイ、アルゼンチン、ブラジルの三国にまたがるミッソンエス地方の遺跡を訪れて、期待を裏ぎらない荘厳な石造りの教会跡に、新大陸南アメリカに向けられたイエズス会の壮大な夢と情熱をまざまざと見せつけられた。赤い石や瓦を積み上げた教会には十二聖人の像や彫刻が施され、華麗なバロック様式の面影が残っていた。
 ブラジルを始めとする新大陸の歴史はイエズス会の活動なくしては語れない。どうしても一度は見てみたかった。
 この遺跡が何で南米のジャングルの中に忽然と現われ、崩壊したかを説明するには、歴史的な部分が多く、ブラジルの授業でもあまり教えられていないため、資料が少ない。なにしろこちらは記者なので、専門的な部分は大先輩、故中隅哲郎氏、および故田尻哲也氏の書いた論文を活用させていただくこととし、@概要Aイエズス会の歴史的成り立ちや活動Bインディオ狩りをしたバンデイランテスCミッションの繁栄Dミッションの終焉という順序で、簡単に説明していきたいと思う。
 さて遺跡はポルトガルやスペインからきたローマカトリック教の一派であるイエズス会の宣教師たちが、先住民グァラニー族にキリスト教の教えを説いて、彼らを文明的なクリスチャンに教育しようとした「教化村」だ。
 インディオの教化村は一般にレドウソン(スペイン語でレドクシオン)と呼ばれている。この意味は「再教育をするために隔離した場所」のこと。
 イエズス会独特の伝道方式で、インディオを本来の居住地から引き離し、共同生活を営みながら農耕生活を中心とする自給体制をとり、カトリック教を普及させていこうというやり方だ。
 彼らはこのあたりに住んでいたグァラニー族を集め、村を作って学校、工場、宿舎、食堂、厨房、倉庫、住宅などを建設し、バナナやマンディオカ、マテ茶を植えて生産活動を行った。
 当時この地方には三十の教化村が作られ、約十五万人のグァラニー族インディオが住んでイエズス会士の指導のもとに生活を行っていたのだ。
 一五六〇年にバイアの教化村を指導するルイース・ダ・グロン神父がインディオの主を集めて、カトリック信者の守らねばならぬことを四か条にまとめたのが、◎一人以上の妻をもたない。◎酒を酔うまで飲まない。◎パジェーの言葉に従ってはならない。◎人間を殺さない、人間の肉を食べない、というものだったのであるから、いかにインディオたちが高度な文明を作り上げたかがわかろうというもの。

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スペイン王朝の迫害で壊滅 密林に建設されたゼズイッタ帝国A 
 
ポルトガルは十九世紀初期になっても非識字率九〇%でほとんどの市民が読み書きできなかったことから考えると三百年も前にイエズス会士たちはインディオの子供たちに、学校で読み書きを教え、楽器を作って、それを演奏し賛美歌を歌っていたのだのだからすごい。
 これら三十の教化村には六千人から一万人の住人が住み、『祈りと労働と教育』で生きる社会をつくった。これがイエズス会士たちが挑戦した「地上の楽園」ユートピアの世界だったのだ。
 十八世紀の半ばには、全人口が三十万人近くになっていたようで、歴史家によっては、それを『グァラニー共和国』、または『ゼズイッタ帝国』と呼んでいる。(※ブラジルではイエズス会のことをゼズイッタという)
 ブラジル側で知られているのはセッテ・ポーボ・ダス・ミッソンエスで、リオグランデ・ド・スール州にあった七つの教化村@サン・ボルジャ、Aサン・ニコラウ、Bサン・ルイース・ゴンザーガ、Cサン・ミゲール・アルカンジョ、Dサン・ロウレンソ、Eサン・ジョアン・バチスタ、Fサント・アンジェロ・クストージオでいずれも十七世紀後半から十八世紀初期に作られたものだ。
 イエズス会士がミッソンエス地方で行った活動は一六一〇年から百五十年にわたった。
 一七五〇年、ポルトガルとスペインの両王は南米植民地の境界線を確定する協議をして、マドリード条約に調印したのだが、この時、ウルグァイ川以東の地にあった教化村に住むグァラニー族はすべて村を放棄してウルグアイ川の西に移住することを迫られた。
 ブラジル側になったしては、勇気、能力、信仰心のある聖職者を数多く見つけることが、法王との約束を遂行するのに最も重要なことであった。ポルトガルが海外に勢力を伸ばすに従って、王が必要とする聖職者の数は制限なく増加し、異教徒をカトリックに改宗させるということを目的の一つとしているイエズス会は最適だったに違いない。イエズス会はポルトガル王朝と結びつき、ポルトガル王室のパドロアード制(布教保護権)のもとに布教活動を始めた
 ポルトガルに続いてイエズス会はスペイン王にも協力し、南アメリカ大陸にイエズス会が着いたのは大陸発見と前後している。
 一五七六年にはメキシコ、同じく八〇年代になるとアルゼンチン、パラグヮイ方面にも活動の舞台を広げた。
 裸で暮らすインディオが住んでいるという他は何もわかっていない人跡未踏の秘境に命も省みずに入って行くのだから、イエズス会士たちのその使命感たるや凄まじいものだったに違いない。
 原住民を教化しようとしたのはイエズス会のみならず、フランシスコ会やイタリア・カプチン会なども進出したが、ことインディオの教化についてはイエズス会が飛び抜けて熱心であった。
 現在残っている遺跡はブラジル・パラグアイ・アルゼンチン三国にまたがるミッソンエス地方のもので、イエズス会士追放の時まで残っていた三十の教化村である。
 これ以前の教化村はグゥイラ地方に十二、ウルグアイ河左岸の現ブラジルリオ・グランデ・ド・スール州に十八、現パラグアイと南マット・グロッソ州にまたがるイタチン地方の六つの教化村があった。
 このほとんどがサンパウロ出身のインディオ狩りバンデイランテスの攻撃で壊滅している。五十年間に三十万人を越す、グァラニー族インディオが捕らえられ、奴隷としてサンパウロへ送られた。
 イエズス会の創立者で初代の総長でもあったロヨラは一五五六年に没するが、法王に修道会が認可されてからそれまでのわずか十六年の間に、たった十人であった修道士は千人近くに増え、その活動範囲は、東は極東の日本まで、西は新大陸のブラジルにまで及んでいた。

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新大陸開拓の尖兵橋頭堡造りに教化村建設に力B
 時はまさに宗教改革の嵐が吹き荒れていた頃。カトリック教会の腐敗と堕落を痛烈に批判するルターに対抗するため、カトリック側も反撃、対抗宗教改革を起こした。
 一五三四年八月十五日、パリの郊外にある教会でイグナティウス・ロヨラほか七人の青年たちがイエズス会結成の誓いをたてた。彼らが世界に先駆けて新天地へと布教に出かけることになるのだが、新しくできたばかりのイエズス会に頼むほどヨーロッパには聖職者がいなかったというとそうではない。
 十五〜十六世紀のヨーロッパは、カトリック教団の勢力が最も発達していた時代だったといわれているが、法王庁においては教理が忘れられ、キリスト教の精神が失われていた時期だったのだ。
 例えばポルトガル国内の聖職者の数は、人口百万強のところに、三つの大司教座(司教座聖堂、カテドラル、大聖堂、ドウオモ、ドーム)に七つの司教座も組織していたが、ポルトガルにいる既存の聖職者は、海外布教といった困難な仕事には役に立たなかった。
 司教、大司教といった高位聖職者の地位は、ほぼ貴族の手中に入っていて、富を貪るのに夢中、無節操で、傲慢という体たらく。
 イエズス会は厳格な軍隊的規律と世界を神のために獲得しようという希望に燃えていた。『祈り、禁欲、労働、教皇に対する絶対服従』をモットーに主にヨーロッパ以外の地へ伝道活動に出かけたのだ。
 ルターの宗教改革の結果、ヨーロッパの北部、中部はプロテスタントになってしまい、カトリックはフランス、イタリア、スペイン、ポルトガルという南ヨーロッパにしか勢力が残らなかったからだ。
 さて、どうして新大陸発見と布教が結びつくのかが、一般人にはよくわからないところである。
 この当時は征服と宣教は一体だった。大航海時代のポルトガル船には船医のように、常に一人かそれ以上の聖職者が乗り組んでいたのだ。
 新大陸では一四九四年、ローマ法王の仲介でトルデシリャス条約が結ばれ、スペイン、ポルトガル領の境界が決まるが、そのときローマ法王が出した条件は『新大陸原住民のキリスト教化の義務付け』だった。
 そのため、一五四九年、初代ブラジル総督トメ・デ・ソウザとイエズス会初代ブラジル管区長マノエル・ダ・ノブレガが同じ航海でブラジルに赴任したのは決して偶然ではなく、ブラジルのインディオたちに布教するために、その後、続々と新大陸入りを始めた。
 当時のポルトガル王としては、勇気、能力、信仰心のある聖職者を数多く見つけることが、法王との約束を遂行するのに最も重要なことであった。ポルトガルが海外に勢力を伸ばすに従って、王が必要とする聖職者の数は制限なく増加し、異教徒をカトリックに改宗させるということを目的の一つとしているイエズス会は最適だったに違いない。イエズス会はポルトガル王朝と結びつき、ポルトガル王室のパドロアード制(布教保護権)のもとに布教活動を始めた
 ポルトガルに続いてイエズス会はスペイン王にも協力し、南アメリカ大陸にイエズス会が着いたのは大陸発見と前後している。
 一五七六年にはメキシコ、同じく八〇年代になるとアルゼンチン、パラグヮイ方面にも活動の舞台を広げた。
 裸で暮らすインディオが住んでいるという他は何もわかっていない人跡未踏の秘境に命も省みずに入って行くのだから、イエズス会士たちのその使命感たるや凄まじいものだったに違いない。
 原住民を教化しようとしたのはイエズス会のみならず、フランシスコ会やイタリア・カプチン会なども進出したが、ことインディオの教化についてはイエズス会が飛び抜けて熱心であった。
 現在残っている遺跡はブラジル・パラグアイ・アルゼンチン三国にまたがるミッソンエス地方のもので、イエズス会士追放の時まで残っていた三十の教化村である。
 これ以前の教化村はグゥイラ地方に十二、ウルグアイ河左岸の現ブラジルリオ・グランデ・ド・スール州に十八、現パラグアイと南マット・グロッソ州にまたがるイタチン地方の六つの教化村があった。
 このほとんどがサンパウロ出身のインディオ狩りバンデイランテスの攻撃で壊滅している。五十年間に三十万人を越す、グァラニー族インディオが捕らえられ、奴隷としてサンパウロへ送られた。
 イエズス会の創立者で初代の総長でもあったロヨラは一五五六年に没するが、法王に修道会が認可されてからそれまでのわずか十六年の間に、たった十人であった修道士は千人近くに増え、その活動範囲は、東は極東の日本まで、西は新大陸のブラジルにまで及んでいた。
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人狩りにも手をつける 奴隷不足をインジオで数合わせC
 十六世紀後半、ポルトガルからブラジルへ移住して、最初にサトウキビのプランテーションと砂糖工場を成功させたのはユダヤ系移民とその子孫だった。一五七〇年に六十か所しかなかった砂糖農園は一六一〇年には二百三十か所へと増大している
 十六世紀後半には早くも黒人奴隷の導入が始まっているが、まだまだ労働力が不足した。
 このサトウキビのプランテーションと砂糖工場の労働力確保のためインジオ狩りを主体とし、教化村を度々襲ったのが『バンデイランテス』だ。
 バンデイランテスは当初は、金、銀、宝石など金目のもを探すために奥地へ探検を始めたが、次第にインジオ狩りを主目的にして奴隷売買を始めた。彼らはそれぞれ自分の隊長家紋の旗を掲げて進行したため、この名前で呼ばれるようになったといわれている。
 バンデイランテスは指揮官にポルトガル人、下士官に混血のマメルコ(白人とインジオの混血)、その下にグァラニー族と敵対するツピー系インジオという構成で百人から二百人の隊を組んだ。
 バンデイランテスの活動は十六世紀の末から十七世紀の終わりにかけての一世紀にわたっている。
 ここで日本人が疑問に思うのはなんで『奴隷か』、ということだ。労働=奴隷という式が、理解できない。
 ヨーロッパは古くから奴隷制度があり、イベリヤ半島だけでは、紀元前から千五百年も奴隷制が一度も中断されることなく続いていた。そのため、イベリヤ半島のカトリック信者には、奴隷制のない社会というのが理解できなかったというのだ。そのため、インジオの教化に熱心なイエズス会士たちでさえ、黒人奴隷を使ったのだ。
 当時のブラジル移住者たちは、日系移民のように朝から晩まで農場に出て働くなど夢にも思わなかっただろう、彼らは体を動かさず、口だけ動かしていたのだ。
 一五八〇年からハプスブルグ家がポルトガル王を兼ねるようになると、アフリカからの黒人奴隷は値段の高いスペイン王植民地の方に流れてしまい、ブラジル側では黒人奴隷が不足して、インジオ奴隷の需要が再び増大した。黒人奴隷と安いインジオでは四倍の差があったという。
 十七世紀に次々に教化村が作られていくのと時期を同じくしてバンデイランテスの活動も活発化してくる。
 バンデイランテスたちは最初のうちは教化村を襲うことはなかったが、一六二〇年代になって、オランダ、イギリスの海上勢力がポルトガル、スペインのアフリカからの奴隷船も片端から捕獲するようになると、奴隷不足はますます深刻化し、ブラジル総督は奴隷用のインジオ捕獲を公認し、サンパウロ住民集団バンデイランテスによるミッション攻撃が一躍、激化してくることになる。
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無抵抗のイエズス会 暴虐の限り尽すバンデイランテスD
 
中でもすごいのは一六二九年の悪名高いアントニオ・ラポーゾ・タバーレスを隊長とするグループ九百人が、地元のツピー族のインジオ二千二百人を率いて、グアイーラ地区十一のミッションと七か所のインジオ部落を襲い、一万八千人のグヮラニー族インジオを捕らえてサンパウロへ運んだと伝えられている。
 バンデイランテスは、ミッション襲撃に際し虐殺を重ねただけでなく、その捕虜をサンパウロに連行するに当たっても、多くのインジオを殺戮している。リーダー格と見られるインジオや老人・子供は、もとより幼児を連れた母親は、路傍に遺棄を命ぜられた。
 バンデイランテスが教化村を襲ったのは、そこにインジオが多数集っており、グアラニー族は素質がよいうえに、イエズス会士に教育されているため、奴隷として、他のインジオより高価で取引きできること。そして何よりもイエズス会士が無抵抗主義に徹していたため、バンデイランテスたちは安心して傍若無人な振る舞いができたからだ。
 バンデイランテスによって、グアイーラ地区、タペー地区を合わせたミッションで捕われ奴隷となったインジオの総数は不明だが、一説に二十万人ともいわれる。
 度重なるバンデイランテスの襲撃にたまりかねた神父たちはローマ法王へ度々直訴したが、ローマ法王パウロ三世がインジオに関しての小勅令を出しても効果ははかばかしくなかった。
 暴力に対して無抵抗を守ってきたイエズス会士も、バンデイランテスの再々の暴挙に、最後にはインジオ側の武装案を容れ、初めて応戦することを認めた。
 こうして武装したインディオ軍の応戦で、一六四一年のムボロレーの戦いは壮快だ。
 前回、思わぬ抵抗に遭って不覚を取ったバンデイランテス側からの復讐戦であった。六百人のバンデイランテスが七百隻のカヌーに分乗したツピー族四千人の軍を率いて、ウルグアイ河沿いに下降進撃してきたものを、ほぼ同数のイエズス会側インジオ軍が迎えうち、相手を粉砕した。
 一六四九年、パラグアイのアスンシオンに駐留するスペイン軍はミッソンエス地方の三十の教化村を承認し、宣教師以外のヨーロッパ人、混血人の立ち入りを禁止する。
 これはバンデイランテスに対する一種の宣戦布告で「今後バンデイランテスが混血のマメルコを率いて教化村を襲ってきたら、スペイン軍が相手をする」という意思表示だった。これ以降、バンデイランテスが教化村を襲うことはなくなった。
 それから十七世紀の終りまで百年に渡って教化村は外敵にさらされることなく独自の文化を作り上げていく。
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遺跡も今は観光村に 日本の援助で修復工事が進行E
 
記者が訪れたのはパラグアイ国東南部にあるイタプア県の首都エンカルナシオンの町から五十キロのトリニダード遺跡、アルゼンチン国に入ってポサダスのサント・アナとサン・イナシオ、ブラジル側に渡ってリオ・グランデ・ド・スール州サン・ミゲール・ダス・ミッソンエスの四か所だった。
 パラグアイのトリニダード遺跡は日本でもっとも知られるミッションで、これは日本企業の支援で遺跡修復工事が行われたからだ。
 トリニダードは保存状態もよく、木をあまり使わずに教化村が作られたため、昔の形をとどめている。教会の柱には十二聖人が祭られ、グァラニー族の幸運のお守りとされる四つの花びらのマークがあちこちに装飾されており、床には千度以上の高温で焼かれたタイルが使用されている。教会や他の建物の屋根には瓦を使用、セメントのかわりに自分たちで考えた骨や卵の殻を混ぜて補強したものを使って石を積み上げていた。
 アルゼンチン側のサン・イナシオ遺跡は最盛期には十八から二十ヘクタールの広さがあったという。一八一七年に終焉を迎えてから百三十年以上放置されており、密林に覆われた遺跡をアルゼンチン国が修復開始したのは一九四〇年代になってからのこと。フィゲイラの木が遺跡のあちこちに入り込んで大きくなり、石垣を壊し始めている。
 また教化村が元になって町ができたため、後から入った住民たちに破戒されてしまった。ガイドの説明では自分の家を作るために、遺跡の石をせっせと運んで建てたというのだ。そのため、めぼしいものはなにも残っていない。あちこちに石が放置されていた。
 最も研究が進んでいるのはブラジル側のサン・ミゲール・アルカンジョの教化村で、ここは観光地化しており、遺跡も修復保存状態がいい。夜は『音と光のショー』と題して、教化村のグァラニー族ストリーを紹介し、大勢の学生や観光客で賑わっている。
 記者が見学した日には近隣から貸切バスで小学生たちが見学に来ていた。その生徒たちを見渡すとリオ・グランデ・ド・スール州に多い北欧系の金髪白人に混じってインディオ系の子供たちも案外いた。彼らがひょっとするとグァラニーの子孫か。
 サン・ミゲール・アルカンジョには南米に唯一残ったイエズス会の十字架や繁栄を偲ばせる教会跡など見ごたえ充分。ビデオでの説明なども用意され、博物館があり、当時の彫刻やキリスト像など一流の芸術品が集められて展示されている。始めて見るものには説明書も行き届いて理解しやすい。
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効奏したカシッキ酋長懐柔策 道遠かったインジオへ宗教心萌芽F
 教化村の発展でインジオと生活習慣がまったく違うのにどうやってキリスト教へ改宗させたのか、という興味が湧く。
 イエズス会士はまずグァラニー族のカシッキという制度を取り込んだ。
 カシッキは酋長のような上下関係で、まずトップのものをキリスト教へ改宗させようとしたのだ。この制度をうまく利用したため、スムーズに改宗が運んだといわれているが、もちろんキリスト教を受け入れず、殺された神父も初期にはたくさんいた。
 サン・ミゲール・アルカンジョのサント・マリオ・デ・カアロ教会にはインディオに殺害されたスペイン人のアフォンソ・ロドリーゲス、ジョン・デカスチーリョとパラグアイ人ロッケ・ゴンザガの三人のイエズス会士が祭られている。
 この教会はもともと日本の長崎で殺された二十六聖人のうちの三人を祭るために作られた教会だったそうだ。同教会の神父が当日私たちのために「旅行が無事に終わること」を祈って特別ミサをあげてくれた。
 ブラジル側の平原やアマゾン低地のインジオはマヤ、アステカ、インカのように絶対権力を持つ王と祭事をとりしきる神官、王に忠誠を捧げる兵士のような国家を作るまでには発展していなかった。
 熱帯低地のインジオは狩猟、採取の生活から脱することができず、進化の過程を辿ることなく小部落の集団に終始した。
 グァラニー族は狩猟、採取民族から一歩進んでトウモロコシやマンジョカなどの栽培を焼畑農業で行っていた。グァラニーは他のインジオより進んでいたために神父の指導で教化村の繁栄を作ることができたのだ。
 イエズス会士たちはグァラニー族を教化するのに苦心惨憺している。なにしろ文化国家から来た神父の常識とグァラニー族の常識はまったく違うのだ。
 神父らが苦心した最初の問題はグァラニーにパンツをはかせることだったという。インジオ側から考えるとえらい迷惑なことと映っただろう。でも一番やっかいだったのは一夫多妻制のグァラニーに一夫一妻制を教えることだった。文化人からインジオまで男という種はまったくやっかいにできているのだ。
 当時、グァラニー族らは鉄製の道具を使用していなかった。そのため神父たちは酋長と仲良くなるために鉄製の斧や山刀、釣り針などをプレゼントして、親密な関係を結んだ。それでも神父がちょっと留守にすると村人全員が逃げ出していたなどということが頻繁に起こったのだ。
 グァラニーは普通百人ほどの小集団を作って暮らしていたが、一つの場所に定住することはなく、転々と場所を変えていたのだ。しかしそれでは少数の神父で巡回して回るのはとても不可能だったため何千というグァラニーが一か所に集められた教化村が出現したのだ。
 イエズス会士たちはキリストの教理を教えるため最初は木で人形を作ったり、ジェスチャーで説明していたが、インジオの言葉を覚えた移住者や神父が現れ始めた。ブラジルでは、イエズス会士によって後にリングァ・ジェラルというツピー語を元にした共通語が作られていた。
 これは十七世紀の間にほとんどのブラジル移住者が使用する言葉となっていたが、十八世紀に金が発見されてゴールドラッシュがおき、新しいポルトガル移住者が入ってくるとポルトガル人と言葉が通じなくなっていた。ポンバル侯爵は、大変怒り、それが追放の一因だったともいわれている。
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インジオ最初の文明村 バシリカ形式の教会や病院もG
 
教化村はどのような作りになっていたのだろう。ミッソンエス地方の教化村はどこも同じような企画や配置で作られている。十七世紀終わりまでの教化村は教会や住居は木造、泥壁、サッペ椰子葺きの粗末な建物だったが、バンデイランテスが襲って来なくなった十八世紀になってからは、より計画的に造られ、本格的な石造りの教会建設が始まった。これらは中世ヨーロッパの修道院を模倣したものだった。
 教化村を建設する場所は農畜産業と健康に適する地帯を物色し、水捌けを考慮して丘の上の傾斜地が選ばれている。また相互の教化村の連絡網を重視し、道路の敷設、架橋、渡し舟が整備されていた。
 各教化村では製作者が工夫を凝らし、技術を駆使してレンガと石造りで教会建設を行った。
 サン・ミゲール・アルカンジョを例にとってみよう。
 この教化村は十八世紀半ばで、人口が約六千五百人だったと見られている。
 一六三二年パブロ・ベネビデスおよびクリストヴァン・デ・メンドンサ神父らによって教化村が作られるが、バンデイランテスの攻撃でわずか八年で崩壊。一六八七年に再び設立され急速に発展した。
 サン・ミゲール・アルカンジョの教会はミラノの著名な建築家で後にイエズス会士になったジョアン・バチスタ・プリモリ神父が担当したもので、百三十メートル角の広場をもち、その正面に幅二十六メートル、奥行き七十五メートルもあるバシリカ形式の荘厳な教会が建設されている。
 建設に使われている石は比較的柔らかい砂岩で、何キロも離れた河から牛車で運ばれたという。
 教会に施された彫刻は細かくデリケートで、壁の茶色が印象的だ。教会横には鐘が下がっていた塔が残っている。
 この鐘は「二トンの重さがあり、ラテンアメリカで最初に製造された」とガイドが説明していたが、現在は博物館に保存されている。これらの建設に十年以上が費やされた。屋根の落ちてしまった壁だけの姿をさらす教会はどっしりと威圧さえ漂わせていた。この教会はブラジル側七つの教化村の中で一番見事な教会だといわれている。
 教会の左手にコレジオ、各種作業の指導所が続き、右手には墓地、墓地からわずかな距離をおいて、養老院・孤児院があった。
 広場を囲む三方はインディオの住居区で、住宅もすべてレンガ仕上げと屋根瓦で葺かれていた。
 住宅はアパート方式で、一部屋の広さは五×五か六×六(メートル)の正方形、一棟に二〜四家族が入るブロックが二百棟もあった。
 トイレ(便所)についてはさまざまな諸論があり、初歩的な水洗式だったか否かは定かではないが、河から水を引いて水利用していたといわれる。
 イエズス会が作り上げた教化村の繁栄は移住者たちの「ねたみ」をかい、追放された後「イエズス会の財宝」が隠されているというデマによって、地下の下水溝まで乱掘されてしまったため調査は難航している。
 それでも当時これだけ全体の環境が整備されていたところは、南米にはなかった。
 この教化村には病室も完備しており、教会の裏手の菜園で、果樹、有用植物など、多種の薬草が育成し、調剤されていた。
 教化村の居住区は高い石塀に囲まれていて、一般のインディオは自由に出入りできないようになっていた。
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経済支えたマテ茶と牧畜 進んだ産業を積極導入の教化村H
 
見事な教会を作るには経済的に豊かでなければできない。教化村はどうやって経済活動を行っていたのか。
 教化村の経済を支えた主な産物はマテ茶と牧畜だった。特にマテ茶はこの地方にしかできな特産物だった。
 マテ茶は古来グァラニー族が愛用していたもので、マテ茶を乾燥し、粉にしてそれをひょうたんに入れ、お湯を注ぎポンビンニャという吸引具を入れてまわし飲みする。熱湯を入れたものをシマロン、水の場合をテレレと呼んでいる。
 ところがマテ茶の調整をしない生葉には毒がある。スペイン側の移住者たちもインジオを使ってマテ茶の製造を早くから始めていたが、製造方法はパジェーが握っていた。マテ茶の調整は工程が複雑かつ微妙。永年の伝統と技術を持つグァラニーが製造するマテ茶のような一級品は作れなかったといわれている。(パジェーは部族の呪術師で医者の役も務めていた)。
 アルゼンチンの教化村サン・イグナシオ・ミニで見たマテ茶の木は十メートル以上の高さになっていた。生の葉っぱを噛んで味見をしていた人がいたが、吐き気、悪寒、ふるえが来るそうだ。記者も好奇心で味見をしたかったのだが、止めてよかった。知らぬが仏だ。マテ茶は当時から南米南部のブエノスアイレス、サンタフェ、チリ、ペルーなどに取り引きされ、教化村の製品は最高級品との評価を受けていた。
 何しろスペイン領土ではブラジルのように奴隷を労働力として開発を奨励するポルトガル側と違い、エンコメンデーロというシステムで、住民から厳しい徴収を地方ごとに義務付け、スペインの収穫畑として南米を監督していたため、教化村も徴税されていたことから現金収入が必要だった。
 そのため、収入源としてマテ茶のほかにもトウモロコシ、マンジオカ、タバコ、ワタ、小麦、サトウキビなどを多量に生産していた。
 ミッソンエス地方に牛を導入したのはイエズス会だった。サン・ミゲール所有の牛は三十万頭近かったと言われ、牛皮の生産量は大変なもので、多岐に亘る加工品を受注していた。
 サン・ミゲールでは皮革加工、瓦・レンガ製造、板金加工、鍛冶、大工、製靴、紡績、縫栽、金属加工、塗装、彫刻、印刷から砂糖製造まで、多岐にわたる産業があったのだ。その指導には、ヨーロッパから技術者を招くこともあったという。
 教化村内の運営にはイエズス会士があたっていたが、何千という教化村に普通二人、多くても三人しかいなかった。彼らは「カビルド」という一種の自治機関を作って運営に当たった。
 これは昔、交通や通信が発達していない時代にスペインの地方都市で行われていた制度で、徴税吏を兼ねた代官コレヒドーレを派遣し、この代官に統治機関をつくらせたもの。
 教化村ではイエズス会士とカシッキがインジオの中から選出していた。選出されたカビルドは行政や立法、司法を統括、軍事面もインジオに任されていた。
 民主的な運営の中で、収益は、村全体の共有の財産とされ、一種の原始共産主義システムで、貨幣流通はなかった。
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百芸に通じた神父 教化村の繁栄を支えた通力I
 ここまでイエズス会士たちのことを説明してつくづく思うことは彼らのマルチ能力だ。
 教化村にわずか二人で神父のみならず、医者、薬剤師、教育者、心理学者などを兼ね、しかも農業や牧畜を指導し、教会建設の建築者や鍛冶屋となり、彫刻や絵までこなしてしまう。超人的としかいいようがない。
 それだけでもすごいのに、サン・ミゲール・アルカンジョの隣のサン・ジョアン・バチスタのオーストリア人アントニオ・セップ・フォン・レイネェグ神父は音楽にも通じていた。
 インジオとともに、限られた材料と道具を使ってオルガン、クラビコルジオ(ピアノの一種)、サルテリオ(十三弦琴の一種)、ファゴット(大立笛)、フルート、チオバ(ギターの一種)、コーネット(ラッパ)などの楽器を製造したのだ。
 そしてインジオにそれぞれの楽器の演奏方法を指導して楽団を組織し、教会音楽を管弦楽で演奏したといわれる。これは新大陸では最初のことだそうだ。
 またこのセップ神父は南米南部としては最初の小型溶鉱炉を設置し、鉄の鋳造加工を行って教会の鐘を鋳造した。
 セッペ神父はサン・ジョアン・バチスタの近くに多い鉄鉱石を原料として、鉄を作り、その鉄を溶かし、鋳鉄をつくって鐘をつくり出したのだ。
 教化村での労働は、七歳以上のインジオは男も女も日に六時間と決められ、ミッション内で製造された時計が教会の鐘に連結されていて、遠方の作業場まで時刻を告げた。
 学校では、子供たちの学習、大人向けにカトリック教理、宗教儀礼の授業が行われていたという。
 しかしこれまでにするには大変な苦心があったろう。もともとブラジルなどではインジオは労働意欲がない怠け者ということになっている。インディオには文明人のような物質に対する欲望がないから働かないのである。
 イエズス会士はあの手この手でインジオが効率よく働き生産性を高める手段を試みた。そして『ツパンバエ』という方法を考え付く。これはツパン(神)ンバエ(所有)で、神のために働くというものだった。土地は神のものであり、神が労働と生産を欲し給うから働かなければならない、ということで『ツパンバエー共同作業』と『アマンバエー』と呼ばれる家族単位の作業を組み合わせた方法で、生産が飛躍的に上昇したのだった。
 イエズス会を創立したロヨラの奉仕の精神と情熱は大変なもので、意志を受け継いだイエズス会士たちがインジオたちを指導して南米に築き上げた「ミッション」(教化村)はまさに情熱と努力の賜物として出来上がった「地上のユートピア」だったのだ。
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大国の領土争いで全て無に 今も生きているイエズス会伝授の技術 終
 教化村が崩壊したのは早かった。ことの起こりは、一七五〇年ポルトガルとスペインが締結したマドリード条約だ。
 両国は一四九四年にトルデシーリャス条約を結んでいたが、実情に合わなくなったため、新たに国の境界線を決めたのだ。
 そのときポルトガルはラ・プラタ地方から手を引く代わりにウルグアイ河以東の土地をスペインから譲り受けた。
 ウルグアイ河左岸にあった七つの教化村は驚愕した。残忍非道だったバンデイランテスの襲撃や、戦いは鮮明に記憶されていたからだ。ポルトガルの領土に留まるなど論外で唯一の方法はすべての村を放棄してウルグアイ河の右岸へ移り、新たに教化村を建設することだったのだ。現地のイエズス会士はこの決定に強く反対し、スペイン王に条約を見直すよう要請した。
 しかしスペイン国王はイエズス会総長に圧力をかけ、アルタミラノ枢機卿をアスンシオンに派遣して、条約の履行を促した。
 マドリッド条約の取り決めに従い、国境線の測量と標識設定のためにリオデジャネイロの知事ボルデラ伯爵が現地を訪問するが、教化村のグァラニー族は実力で測量隊を追い返し、遂に蜂起して、武力で阻止する決意をしたのだった。
 これに対してスペイン、ポルトガル両王は討伐軍を出したが、一七五三、五四年にはミッション軍の猛烈な抵抗に遭い占拠できなかった。一七五六年になってスペイン、ポルトガル連合軍三千七百人が十九門の大砲を装備して、カイボアテーに於いてミッション軍千七百人と対戦した。
 なにしろ戦力の差があり過ぎた。グァラニー軍は対バンデイランテス戦争時代に用いた竹筒大砲二門と後は槍と山刀に馬五十頭という戦力だった。この結果、ミッション軍は千五百人以上の死者を出して惨敗を喫した。これが有名な「グァラニー戦争」だ。
 連合軍によって占領されたセッチ・ポーボは、ポルトガル王の支配下となった。そして、最初に書いたとおり、ポルトガルの独裁者ポンバル侯爵は一七五九年、財産を没収してイエズス会士を全ポルトガル領から追放してしまった。それでは気が治まらなかったのかスペイン王朝にも働きかけて一七六七年にはスペイン領からも追放させ、ミッソンエス地方にあった約三十の教化村は終焉を迎えた。
 イエズス会とインジオ・グァラニーが共存して創造した世界でまれに見る「地上の天国」教化村はスペインとポルトガル両国の領土争いに振り回され、わずか百五十年で廃墟となってしまった。
 遂に一七七三年、ポンバル侯はクレメンス十四世法王を動かしてイエズス会を消滅させる。しかし一八一四年、法王庁は非を認めてイエズス会を再建させることになる。
 一説にはブラジル側の移住者は二百年経っても人口三十万人となかなか移住者が増えず、開拓されなかったが、十八世紀、金が発見されてゴールドラッシュが来ると一挙に四百万人に膨れ上がり、イエズス会が必要でなくなったためといわれる。
 誰でも思うのはこれだけイエズス会士に指導された産業や技術はいったいどうなってしまったのだろうか、ということだ。
 一八一六年、このミッション地帯を旅行したフランス人、ジャン・バチスタ・デブレーは、『ミッションは崩壊していたが、ミッションにいたというインディオが、近隣のとある場所で石鹸製造で有名になっていたことや、別の場所では見事なブドー酒を製造していている』ことを記している。
 イエズス会士が持ち込んだ女性に授けたレース編みなどは、今もパラグアイ・インディオの一部に受け継がれているという。残念ながらブラジル側ではこういうものは残らなかったが、イエズス会が導入した北米種のブドウは、イザベル種として現在のリオ・グランデ・ド・スールでは最も栽培が多い種類となっているそうだ。
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あとがき
 記者はこの遺跡を巡って平家物語の一説、『祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらわす。 おごれる人も久しからず、 唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、 偏に風の前の塵に同じ』が、浮かんできてしようがなかった。 
 当時、これほど企画、整然と作られた町はないと言われた「ユートピア」は一瞬のうちに崩壊して、荘厳といわれた教会は哀れな姿を曝している。
 歴史学者でもなんでもない記者が、この「ミッション(教化村)」の記事を書こうと思ったのは、ブラジルにそしてパラグアイ、アルゼンチンにこのようなすばらしいユネスコ遺産が存在することを知ってもらいたかったからだ。
 私たちは日常でもイエズス会の恩恵を受けている。サンパウロ、ペルナンブッコ、マラニョン、バイア、パラー各地方や、マナウスなど現在の主な都市は彼らが教化村を建設したことから発展してきた町だ。
 しかし後悔した。これは荷が重すぎた。日々の編集と片手間にできる代物ではない。書き残したことがいっぱいある。興味のある人はサイトで検索するといろいろな本が出版されているし、聖市のコレジオ・パッチオには資料がたくさん残っている。記者は、大先輩の故中隅哲郎氏と故田尻哲也氏の遺稿を参考にさせていただき、なんとか終章にこぎつけた。大先輩たちに敬意を表し、心から感謝したい。(木本まゆみ記者=おわり)
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